近代日本の基礎を気づいた若者たちが、師と仰いだ
人物とはどんな人だったのだろうか。著者は、戻るべき
基本を明確にし、現代のある種の日本人の人心に瀰漫する
迷いを断つ必要性を主張する。登場人物は、
吉田松陰-沸騰する情熱の伝播
福沢諭吉-「私立」という生き方
夏目漱石-「夏目漱石」という憧れの構造
司馬遼太郎-日本史を繋ぐ
公と情熱と合理性と教養、
暴力的にまとめれば、この四つの重要性を学んだ。
公のために生きるのであるが、そのためには、
情熱がなければならず、判断は常に合理的でなければならない。
しかしながら、理に立ちすぎず教養ある人間としてあることに
勤めなければいけない。そんな日本人像を素朴に思い浮かべる。
「「日本をどうするのか」という問いと、「君自身は、個人としてどう生きるのか」という問いが繋ぎ合わされたところに、志が生まれ、初めて生きる価値が生まれると考えたのが松蔭だったのである。」(p.49)
もうひとつ、反省したのは、
「学校に行くお金がないから丁稚奉公する。けれども、本当は少しでも上の学校に行って勉強したい、あるいは少しでも多く本を読みたい。しかし、本を買うお金がないから借りて読む。そうまでしても、みな学校に行って学問を積みたいと思っていたのだ。第二次大戦に出征して亡くなった学徒兵たちの手記を集めた『きけわだつみのこえ』を読んでも、死ぬ間際の若い人たちが、もう一度きちんと本を読み、学問をやりたかったと、率直で痛ましい告白をしている。いまの若者がそんなことを言うだろうか。かつて学問はそれほどの幸福感を人々に与えていたけである。そして学問は自分ひとりのためではない。勉強してみんなのために尽くすのだという気持ちが当たり前だった。ついこないだまでは、それが続いていたのだ。」(p.100)
自分の学問に対する態度を凛と引き締めると同時に、
学問がしたくてもできなかった向学心あふれる当時の
若者の悔しさを想うと胸が苦しくなるではないか。
いかに恵まれた環境にいるのか、ということを再認識し、
学び続ける態度を新たにする。
齋藤 孝『日本を教育した人々』(筑摩書房, 2007)
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